石の蔵ジャーナルishi-no-kura : Journal

Vol.2 : May 2018上野仁史 「石の蔵」代表

大谷石の蔵を使って表現したい

この建物は、今から64年前に、食品原材料の倉庫として建てられたものです。後年、倉庫を郊外に新設移転したことから、この蔵は使われなくなっていました。

私は東京に15年ほど暮らした後、33歳の時に家業に従事するため宇都宮に戻り、36歳で「石の蔵」を始めました。宇都宮に生まれ育った私にとって、大谷石の蔵や景観というのはごく身近なもの。特別なものではありませんでしたが、東京で会社勤めをしていた頃に、その価値に気付く、象徴的な出来事がありました。

それは仕事で百貨店「香港西武」へ行った時のこと。そのエントランスに大谷石が使われていたのです。佇まいが素晴らしく、海外の商業施設に地元の石が使われている姿を目の当たりにして、改めて大谷石の価値を知りました。

宇都宮に戻って地元を見つめ直してみると、宇都宮は東京以北では札幌、仙台に続いて3番目に大きな都市で、商業集積もあります。ところがあまり特色はなくて、東京から遊びに来てくれた友人を案内する先は、益子や那須、日光とか、市内では大谷石資料館というかつての採掘場くらい。せっかくなら東京にはない、この地域ならではの体験をしてもらいたいなと考えている内に、休眠状態だったこの蔵の活用を思い立ちました。地元産の大谷石の蔵を使って、何か地元の表現をすることはできないか。それが「石の蔵」を始めた動機です。

宇都宮には大谷石を使用した蔵が点在していて、一旦地元を離れて戻った私の眼には、それが宇都宮ならではの景観に見えました。ここまで大きい蔵というのはさほどありませんので、何か有効な活用表現はできないものかと。セミナールーム、イベントホール、益子焼のギャラリー、ビアホール…さまざまな選択肢を考えました。そして、もともと食品原材料の卸を家業としていたことや駅ビルで飲食店を経営していたことなどから、食との縁を生かして、この蔵で飲食店を始めることに決めました。

価値のある体験は、人を豊かに

私は常々、「体験価値」というものを、とても意義あるものと考えています。自分自身、いろいろな体験によって感動したり、気持ちが豊かになったり、くつろいだり、リフレッシュできたりするんですね。お客様にも空間やサービス、提供物など総合的な体験を通して、何か素晴らしいと思っていただける価値を提供していきたい。その思いは強く、飲食店を始めた理由のひとつでもあります。

物販店ですと、お客様は店に入ってちょっと滞留して買物したら帰られてしまう。飲食店の場合は、昼であれば1時間半くらい、夜は2~3時間くらいは、スタッフを介在してお客様と体験を生み出すことができます。さらにとなると、宿泊ということになるのかもしれませんが、飲食店では物販店以上に、体験価値というものを提供することができるんですね。

そして、和食の店にしようと思ったのは、当時、宇都宮には東京にあるような若者向けの洒落た店ができ始めていたんです。逆に、私は30代半ばでしたが、自分より年上の人がくつろげるような場所はありませんでした。そういう店をつくりたいと思い始めて、それなら軽飲食というよりはしっかりとした飲食で楽しんでもらえる店がいいなと。和食なら男女の隔てなく、年齢の隔てもなく、友人や家族と一緒に来ていただけるんじゃないかと思ったのです。

私は海外に少し暮らした経験がありまして、海外にいると日本人としてのアイデンティティとか感じますよね。外国のものより、日本のものを追及する方が自分にとって納得感もありました。「大谷石の蔵を活用して地元の表現をする」という動機とも結びついて、宇都宮産、栃木県産の食材を使った和の料理を提供しています。

美味しく食べる、という悦び

開店当初の2年くらいは、料理についてしばらく悩んだものでした。その時期に、これはいい!と思ったのが「一部ビュッフェスタイル」。完全なビュッフェスタイルではなく、一部と付く理由は、主菜はオーダーを受けてからお作りして、作りたてを席までお持ちするからです。ビュッフェコーナーでは、前菜とデザートをご自身でお取りいただきます。自分で好きな物を選んだり、食べる量を加減できたりするのは楽しいですよね。

この一部ビュッフェスタイルは、パークハイアット東京にある「ニューヨーク グリル」が開店当初から行っているスタイルです。私も食事に行って、主菜は作りたてをいただいたり、ビュッフェでは自分の嗜好を楽しんだり。これはいい!という体験をしました。後日、料理長とマネージャーも連れて行き、このスタイルにヒントを得ながら、石の蔵らしいメニューとスタイルを皆で考えました。

そうして生まれた石の蔵の一部ビュッフェスタイルをランチタイムに取り入れて、もう15年くらい経ちます。主菜をちゃんとお作りしてお持ちするのでメリハリもつきますし、温かい物は温かい内に召し上がっていただけます。ビュッフェではお客様の嗜好に自然と近付くことができて、それでいて主菜は別にちゃんとありますから、ビュッフェで食べきれないほどの量を取って余らせてしまうということも防げているように思います。

「食べる」ということは根源的なこと。その当たり前のことを、最近はとくに、母が入院したこともあって実感しています。母に体調がよくなったら何をしたいかと尋ねると、「美味しい物を食べたい」と言うんですね。料理を美味しく食べられる体調ということはもちろん、そこに家族や仲間がいて、共に時間を過ごせるということすべてが、「美味しい物を食べる」という意味に含まれているのだと思います。それは家庭でもできることでしょうけれど、そういう人の根源的な楽しみだったり、悦びだったり、価値だったりするものを、私たちの店には提供できる機会があります。友達とのひと時を楽しみたい、英気を養いたいなど、お客様それぞれのお気持ちに応えられるよう、これからも進化させていきたいと思います。

ちょっとした意外性をしのばせて

石の蔵は、日常からやや非日常に寄った空間です。ふだんの生活の中での煩わしさ、喧噪、忙しさなどから、少し浮遊したひと時をお過ごしいただけます。その日常からちょっと浮遊した特別感を、空間とそこに見合った食事によって提供し、お客様にはリフレッシュしたり、リラックスしたり、リチャージしていただけたらと考えてきました。また、さらに非日常的な特別感の提供としては、この独特な雰囲気を生かして、レストランウエディングやコンサートなども行ってきました。

2001年の開店当初は、今のように蔵全体を活用したわけではなく、道路側のダイニングスペースのみで始めました。その後2006年に、ダイニングの奥に続く蔵を活用して、個室とギャラリー&ショップをつくり、2016年にはギャラリー&ショップから続く2階に、ラウンジをつくりました。

人がどのように思って、その空間での時間を過ごすのか。それは体験価値にもつながってくる大事なことです。照明の照度にしても、明るめかちょっと暗めかでは落ち着き方が違いますし、料理の見え方も変わって、食べる経験を左右します。開店当初、空間活用に対する専門的な知識や経験が私には足りてなく、東京のコンサルタントを介して、インテリアデザイナーの新藤力さんと照明デザイナーの山下裕子さんに空間づくりを手がけていただきました(詳しくは次号のジャーナルに掲載予定)。

満足というのは、想像の範囲内のことであり、感動というのはどこかに意外性とか、予期しないことがないと起こらないもの。インテリアや照明の専門家が関わってくださる中で、改めて気付きました。空間も料理もサービスも、究極の醍醐味はそこにあって、私が思う優れた体験価値というのは、そういう予期しない、ちょっとした意外性にあるのかもしれません。つまり、想定以上のもの。例えば、自分の好きなお酒があるというよりは、自分の好みを伝えると、そこで店のスタッフが想像を働かせて、飲んだことはないけれど好みに近いお酒を出してくれたら嬉しいですよね。そのお酒ありますよとお出しするよりも、要望を解釈して提案し、それでお客様に喜んでいただけたら、それはサービスの最大価値です。なかなか難しいことですし、同じことを繰り返してもダメです。でも、そういう思いを少しずつでも実現していけたらと思っています。

新しい提供としまして、この春よりスイーツのテイクアウトを始めました。これまでは店内でお召し上がりいただけても、テイクアウトはできませんでした。そのため、テイクアウトができるよう、ショップ側にスイーツ工房をつくり、クッキー、フィナンシェ、マドレーヌなどの焼き菓子を中心に、パティシエがオリジナルスイーツを開発中です。まだまだ究極の目標ですが、宇都宮に来たらあそこだよね、と寄っていただけるようなオンリーワンのお菓子を目指して、石の蔵らしいちょっとした意外性をしのばせたお菓子を作っていきたいと意気込んでいます。ぜひ、お立ち寄りください。