石の蔵ジャーナルishi-no-kura : Journal

Vol.9 : Mar. 2022堀木エリ子さん (和紙作家) × 上野仁史 (「石の蔵」代表)

象徴的な和紙の光柱
上野

石の蔵の空間において、シンボリックな存在である「光の柱」。かれこれ21年前に施工でしたが、その1年前くらいに、インテリアデザイナーの新藤力さんから堀木さんに作品の依頼があったと思います。そのとき、どのようなことを構想されたのでしょうか?

堀木

場の力ってありますよね。その場のもつ力を、どう目に見える形にしていくかということ、それが始まりでした。石の蔵さんは、名前の通り大谷石で造られた蔵。最初に写真で拝見したとき、その場の力というのが、何か力強いエネルギーが内側から涌き上がっている、という感じがしたんですね。そこからモチーフはすぐ決まり、昔から日本人が伝統的に使っている文様で「宇宙の良い兆しが涌き上がり、立ち昇る」という意味を持つ「立涌(たてわく)柄」としました。石の蔵さんでお食事をする方々が、会話やさまざまな出会いによって、良い兆しがそこから派生していくようにと願って、筒状の立涌柄とし、良い兆しを立ち上げるというイメージを表現しようと思いました。

写真:白鳥美雄/2001年竣工当時
上野

それまでにも、和紙を筒状に施工されたことはあったのですか?

堀木

「光柱」というのは、実は石の蔵さんが初めてだったんです。巨大な和紙を、筒状に吊り下げていますけれど、普通に柱に巻くだけだと、断面が和紙ですからフニャフニャしてしまうんですね。楕円になったりして、ちょっと歪になってしまうのを、どうやって真円に保つか。初めてなのでかなり検討したのを覚えています。

上野

その後、光の円柱を数多く手がけられていますけれど、石の蔵が最初だったのですね。

堀木

そうです。その後もいろいろと施工しましたけれど、石の蔵さんが最初の挑戦でした。検討を重ねていく中で、アクリルシートを内蔵して、大判の和紙を円筒に吊り下げるということに行き着きました。和紙は、切ったり折ったり貼ったり曲げたり、何でも出来る素材なので、逆にちょっと気を抜くと工作になってしまうんです。私たちは「工作」ではなくて「創作」をしないといけない。例えば断面がちょっと歪になるとか、糊をベタベタ使って何かをするとかということになると、結局「工作」になってしまう。そこを「創作」に高めて行くためにどうするかというのは、真円を一つつくるのでも大変で、意外と見えないところで工夫が必要なんですね。

上野

なるほど、工作ではなく創作…。床から梁まで円柱があることによって、空間の高さも強調されたように感じます。

写真:白鳥美雄/2001年竣工当時
堀木

蔵の吹抜け感というか、あの高さは魅力の一つですから。そのために和紙も床から梁までの一枚漉きにしています。見る人には和紙を貼り合わせでできていると思われがちですけれど、5.5×1.4メートルの大きな一枚に漉き上げていることは、創作においてとても大事なところです。

上野

耐震補強のための柱ですが、それを機能のみならず、何かに転化しようと新藤さんは思われて、堀木さんに依頼されたのかなと思います。

堀木

柱は、普通は空間にとってノイズとされることが多いですよね。そのノイズを、逆に魅力に変えていく。私たちの和紙のつくり方は、常にそうなんです。例えば、グルッと巻いたときに、継ぎ目が発生する。その継ぎ目は1本の線が必ず入るわけですけれども、継ぎ目を継ぎ目と見せずにデザインにしていく。縦の方向に楮の繊維を漉き込んで、その楮1本分で継げば継ぎ目は見えなくなり、そこでノイズは消えてデザインの一部になります。だから、ノイズをいかに効果的に変えるかとか、ノイズをいかに機能や用途に変えていくかというのが、私の和紙作品に対する着手の仕方で、デザインの発端なんです。そういう意味では、まず継ぎ目を見せないために縦方向に線を入れる、そして良い兆しが涌き上がるように立涌柄を入れる、というような展開は、デザインの発想としてはとてもシンプルです。

上野

光の柱は、石の蔵のシンボル、まさしく支柱という感じです。幻想的な明かりで、効果としても絶大なんですが、内に隠された柱というものの用を美に転化されたということですね。
当初は和紙を照らす内側の光が、柱が長いので上まで届きにくいということで、照明デザイナーの山下裕子さんもかなり試行錯誤されました。最近、柱の内部の光源をLEDに変えたんですよ。

堀木

ここ近年は、LEDの発達が目覚ましいです。LEDがどんどん開発されると、和紙の可能性も広がるんです。熱を持たないとか、長く光が伸びるとか、調光も電球色から白色まで簡単にリモコンで変えられるようになったり。そういうことが可能になってくると、今までは壁と和紙の間を30センチ開けなければいけなかったものが、10センチでいいとか。とても小さなライトオブジェの中にも電球を仕込めるなど、さまざまなことで可能性が広がっていきます。最先端の技術と伝統的な和紙というものを、どう組み合わせていくか、いろんな業界、いろんな異素材とコラボレーションをしていくこともすごく大事です。私たちは大きな和紙の開発も、立体的に漉くという和紙の開発もそうですけれど、要望をいただいてその要望にどう応えようかなというところで、初めて着手ができるんですね。場を与えていただくことで、新しい開発や挑戦ができるわけです。私が自分から、こんなものがあったらいいだろうな、こんなものをつくったらビックリするだろうなと思ってつくったものは一つもないんです。石の蔵さんでも、新藤さんからご依頼をいただいて、その要望の中で巨大な和紙が生まれ、そして円筒形に光を床から天井まで上げる、ということが成されてきています。一つ一つそういう挑戦ができる場を与えていただいていることに、とても感謝しています。

上野

LEDの最先端な技術とともに可能性を広げていく一方で、和紙には儚さも感じます。石とか木とかの素材とはまた違う儚さみたいなもの、気持ちにすり寄ってくるものがあります。素材が持つ表情のやわらかさとか儚さとかは、和紙ならではの魅力の一つだと思います。それでいて和紙は丈夫で耐久性もあるという機能性があって。

堀木

最近ではマンションなどでも快適性を求められるじゃないですか。快適ということからすると、例えばボタン一つで適温のお湯が出るとか、セキュリティが整っているとか、空調の温度がいつも保たれているとか、たぶん100人いれば100人ともが快適ということは感じられると思うんですね。でも、私たちが和紙で表現することというのは、快適さとはちょっと違う「居心地の良さ」だと思うんです。その居心地の良さ、何を居心地が良いと感じるかというのは、100人いたら100人とも違うんです。同じ一人の人間でも20代で居心地がいいなと思うことは、30代、40代、50代と、どんどん変化していくと思うんです。私自身もそうです。でも、この和紙という素材は、なぜか一人一人の居心地の良さにちゃんと寄り添ってくれる。本来なら100人いたら100人とも違うはずなのに、限りなく多い人数が、居心地がいいなと感じてくれる素材なのではないでしょうか。年齢の経過に応じて、一人一人に寄り添ってくれるような素材だと思っています。石の蔵さんでもこうして20年間も使っていただいていますけれど、そういう意味では竣工当時の写真を見ても、あまり古さを感じないですし、たぶん20年前と同じような依頼を今されたとしても、私がつくるものは昔も今もほぼ同じものができたのではないかと思います。思い入れが深くて、ホッとする、自分自身でもとてもいい仕事ができたと思える現場の一つです。

写真:白鳥美雄/2001年竣工当時
上野

ありがとうございます。この光の柱があるとないとでは全く違う風景となってしまうというものですから。

堀木

この柱が光っている状態と光ってない状態では全く違いますしね。例えばワーロンなどで同じように円筒につくってもまた違うでしょうし。何よりも私たちはよく、和紙は何年保つんですか?って聞かれるんです。いやいや、それは長年ずっと保ってますよと言うんですけれど、本当ですか?って言われたときに、「石の蔵さんを見に行ってください、20年確実に保ってますよ」と。そういう一つ一つの歴史を、一緒に歩んでいただいているなという気がしています。

未来へつなぐ、伝統と革新
上野

施工当時、堀木さんは30代後半くらいでいらして、確かその年に、堀木エリ子アンドアソシエイツを設立されたんですよね。

堀木

そうです。激動の年で…。私が39から40歳になるところでしたから、ちょうど今から20年前。独立して会社を設立したばかりで、健康診断に行ってみたところ癌が見つかって…。すぐにでも手術しないといけないのに病室が空いていなくて、仕事をどうしていくかということを考えつつ、病院の手配などをしながら向かった現場だったので、個人的にもよく覚えていて、とても思い出があります。

上野

そのことを堀木さんは内に留めていらして、私も後日談として知りました。そんなご体調の中にも関わらず、現場はまだ施工中で扉も付いていなくて。真冬の空調もない中で施工していただきました。心の中ではいろんな葛藤がおありだったのでは…。

堀木

独立のこと、癌のこと、いろんなことが重なって、すごく闘っていた時期でした。当時も仕事を途中で辞めるという発想はなかったので、何かの場合はどうするかという遺言状を書いたりもしました。そういうことの闘いの中から、寿命を全うする限り、自分がどう死ぬかなんてわからない、つまり死に様は選べないということに気がついたんですね。でも、生き様だけは選べるということにも気がついて。毎日を何となく過ごすのではなくて、一つ一つ、ちゃんと選んで生きていこうと決心できた。死と向き合うことで、生きることが見えてきた時期でもあるんです。

上野

堀木さんは精神的な巨人のように私には見えているんですが、そういう意味では変遷というか、思い切ったというか、そういう時期、時期があったわけですね。最初からそうではなくて。

堀木

もちろんそうです。あの当時が、いちばん私が強くなれた、考え方を持てたときだと思うんです。生き様を示していけると言っても、じゃあ、生き様って何なのかと考えていくと、やはり私の場合は和紙を提供する仕事をしていますから、和紙で人の役に立つことが、結局生き様につながる。どういう作品をつくったら人の役に立つのか。ものづくりの基本ですけれど、作品の中に自然に対する畏敬の念や命に対する祈りの気持ちが、しっかりそこに表現されていて、それが人に伝わって、みんながそれを見て幸せになってくれるというのがいちばん大切なのです。

上野

当時は、それは凜とした仕事ぶりでいらして、気迫溢れるというか、緊張感の漂う現場でしたね(笑)

堀木

当時の私たちの現場は、端から見ていて近寄れなかったとよく言われました。結構、怖かったんですね(笑)。まだ、和紙は燃えるし、汚れるし、破れるし、変色するし、建築なんかに使えないと思われている時代でしたから。その中で、和紙はそのようなことを克服できるし、現代の役に立てる素材だということを示していかないといけない時期だったので。ちょっとした気の緩みで、工作になってしまう、というところをすごく意識していたんですね。今はかなり手法とか技法を確立できてきたので、そこまでピリピリしなくても、ある程度経験とともにできるようになってきました。20年経ってだいぶん丸くなりましたね(笑)。

上野

光の柱は、時折状態を見に来ていただいて、お陰様でかなり状態は保たれています。こういう円筒の立て方で、高さのあるものは初めてということでしたけれど、今振り返ってみてどんな作品でしょうか?

堀木

今見てもそんなに古い感じはしないですね。私たちのものづくりの根底と言いますか、基本的な部分を表現させていただけたかなと思っています。ここからまたいろいろな技法が生まれて、光柱もここからたくさんのバリエーションで表現させていただくようになって、本当に大きなステップとなった現場です。

上野

堀木さんは覚悟決めてられるなと。自分の人生に何を全うされるのか、確固たる信念というものを感じます。

堀木

覚悟とか決心ってとても大事だと思うので、私はそれができる仕事と出会えてよかったです。和紙が好きだったわけでも、和紙の魅力に取り憑かれたわけでもなくて、たまたまご縁から伝統産業が廃れていく様子に接して、職人さんたちの真摯な姿を見て、これを何とかしなきゃいけないという使命感から始まっているので。だから、和紙のどういうところに魅力を感じてこの仕事に入られたのですか?とか聞かれることが多いんですけれど、全然そういうことではなくて、誰かが何とかしなくてはいけないという思いだけでした。本当によく続けていると思いますけれど。今も全然昔と変わらないですね、思いも目指すところも。

上野

覚悟を決めるって、人は誰しも時々思ったりすると思うんですが、容易に緩んだりしますよね。それを永続していくモチベーションというのは、何とかしなくちゃという使命感の強さですか?

堀木

使命感がいちばんですね。講演会とかをお受けすることもあって、よくお話させていただくんですけれど、いつも話をする内容は一緒で。どんな話かと言うと、人生の中で大事なものは、プライベートでも仕事でも一緒なんですけれど、「ご縁」と「腹の底から湧き上がるパッション」だと言ってるんです。ご縁は日々あるんですけれど、自分自身に体の中から湧き上がる情熱がなければ、結局そのご縁は広がったり深まったりしないと思うんですよ。でも、パッションは一旦持つことができても、うまくいかなかったり人から批判を受けたりすると、簡単に萎えたり折れたりするんですよね。

上野

堀木さんでもそういうときありますか?

堀木

もちろんです。萎えたり折れたりしたときに、どうやってもう一回そのパッションを立ち上げるかということが、人生の勝負、闘いなわけです。そのときにどういう考え方を持つかというところで、私はいつも原点に戻って考えるようにしていて、深く悩んで、早く考え方を見つけるので、立ち上がりが早いんです。例えば、私は大学でアートを勉強していないし、学校でデザインを勉強したこともない。職人さんのところで修業したわけでもない中で、この仕事を始めています。当初は強くパッションを立ち上げて、職人さんのために和紙の技術を未来につなぐためにと思ってやりましたけれど、うまくいかなかったり、売れなかったりした中で、絶対うまくいかないからやめておけとみんなに反対されました。その理由というのが、専門的な勉強をしていないからできないんだと。その時点ですごく落ち込むわけです。ただよく考えてみると、土偶とか埴輪とか、あの素晴らしい土器をつくった人たちは特別な勉強をしたわけではない、普通の一般の人たちなわけです。そういうことを考えたら、実は人間みなクリエーターだというところに落ち着くわけですね。私が専門的な勉強をしてないからできないなんて、それは言い訳にしか過ぎないという考え方を持って、またパッションを立ち上げる。そういう単純なことですけれど、前へ進むための考え方を持つ。その繰り返しです。

上野

人って最初は誰もが何者でもないじゃないですか。何か志を持って、日々取り組むことによって、何者かになっていくのであって…。堀木さんにとってのプロフェッショナリズムというのはどんなことでしょう?

堀木

「さすが」を求めるということです。私たちは「さすが」という言葉を生み出したいんです。これは、期待通りか、期待以上でないと絶対出てこない言葉ですよね。お客様さまから「さすがですね、堀木さん」と言ってもらえる現場を、どう残せるかということだと思うので。その言葉をもらわないと、仕事をしたとは言えないです。

上野

さすがというのは、何か人々の心を揺さぶるというか、感動をもたらしたり、更には生きててよかったと思えるような瞬間を及ぼしたりしますよね。

堀木

実際に私たちが和紙を漉いていても、和紙という素材はさすがだなと思うことはたくさんあります。それは想像以上のものが生み出されるということです。和紙でつくっているその行為は、私が100%デザイン通りのものをつくろうとするとうまくいかない。7割くらいは人の作為ですけれども、3割くらいは自然の偶然性を活かしてどうつくるか、というところから、私たちが考えもしない、さすがな和紙の質感が生まれるんですね。それにはバランスが重要で、ご発注いただく側とつくる側のバランスもありますし、例えば石の蔵さんを訪れるお客様と場の持つ力の関係性もあります。作品そのものに対しての表現ではなくて、作品から放たれる空気感や気配が、この蔵の中でどう作用するのかということがとても大事になります。その中には、もちろん新藤さんの全体的なプロデュースもありますし、富田さんの家具の力もありますし、そういったさまざまなことのバランスが、さすがを生み出していく。そうして最終的に来てくれたお客様に感動してもらうということですね。

写真:白鳥美雄/2001年竣工当時
上野

石の蔵では、さまざまなクリエーターの方に関わっていただいたのですが、優れたクリエーターの方々というのは、常識的でなく、既成概念を超えてゆくというか。エネルギーが突出しており、ややもすると表現欲が過剰とも感じることがありました。しかしそれらが結集すると、従来にない何か高みに至るという感じがしました。とりわけ堀木さんの作品は、空間におけるシンボル的な、清らかな、凜とした空気を放っていただいている気がしています。先ほどのお話では、3割は自然の偶然性を活かすということでしたが、それを制御しようと思われたことはあるのですか?

堀木

制御をしようとした結果、それはつまらないなということを発見したわけです。どうしても最初のうちは、100%自分の思い通りにつくりたいという欲がありますから、力づくで作業をするんですけれど、美しい作品にはなりません。やっぱり感動する作品というのは、100%の作為ではないですよね。逆に自然の力が100%近くなってしまうと、ちょっとおどろおどろしい、気持ちが悪いような和紙にしかならないんです。だから、デザインとか目標とする表現ということがあって、その中で偶然性をどう引き出すかということが大切ですね。

上野

確かに、自然も自然のままだけですと、それほど美しいと感じなかったりもします。里山の風景を見ても、入れている作為と自然とのバランスみたいなものがありますよね。でも、3割が想定以上に良くなるときもあれば、想定より悪くなるときもありませんか?

堀木

もちろん、失敗も起こります。それでも、感動的な思ってもみない表情が生まれるというのは、はかりしれない感動につながっていくものなので。その3割をどう生み出すかということが大事です。私たちには、越前に行って職人さんと一緒につくる手法と、京都の工房で私たちだけでつくる手法と二つあるんです。職人さんと一緒につくる手法としては、職人さん5人、私たちのスタッフ5人、合わせて10人がかりでつくります。職人さん側には、どんなデザインにしたいかという説明は一切しません。私たちのスタッフは当然、最終的にどんなデザインにしたいかわかっていますけれど、現場の職人さんたちに知らせていないので、職人さんたちには意図がない。その中でものをつくっていくから、偶然性が起こってくるんです。わざとそうしています。

上野

職人さんに説明されていないのですか。

堀木

職人さんに何か新しいことを言っても「できへん、できへん、そんなものできへん」って3回くらい言われるんです。できへんってすぐ仰るので、それでも最初は、無理にでもとお願いしていたんですけれど。本当にできないのかなって考えて、自分でできないなりにもやってみたら、できることの方が多い。ということの繰り返しから、新しい手法は私たちスタッフが行なって、職人さんには漉くという古来、受け継がれた作業をしていただいて、そこで双方に関わり合いながら、一つのものをつくっていくようになったんです。一日の中で、制作中の和紙の道具の周りに、職人さんたちがいるときと、私たちがいるときとが入れかわっています。それぞれ担当があって、それを入り混ぜながら一つの作品を漉いていくという方法なんです。無理強いしたくないのでそうしているうちに、職人さんには説明はしないでデザインは私たちが入れていく、ということが成り立ってきて、そのうちに10人で動くようになって。職人さんに何も伝えずに漉いていくと、偶然性が微妙に発生するということを発見したんですね。その発見していくとか新しい技術が見つかるということの根底は、自然に逆らわないことです。和紙の素材にも無理強いしない。水の力にも無理強いしない。職人さんにも無理強いしない。その無理強いしない中で、いろんな知恵や作為を関わらせていくということです。

上野

石の蔵の場合はどうされたのですか?

堀木

まさに石の蔵さんの制作の時も、職人さんに「一枚ですごく長い大きな和紙をつくりたい」と言ったら、そんなものできへんって。なぜなら道具がこういう形のものしかないからっていう答えが返ってきました。確かに、一枚漉きですから、職人さんの道具ではできない。それなら自分たちでつくろうということで、大きな桁で、自分たちの道具と手法でつくったんです。原料を職人さんに用意していただいて、私たちの京都の工房で、私たちだけで巨大な和紙を一枚で漉きました。こういうことも職人さんに無理強いしなくても、私たちでできるようになって。ただ、越前に行って職人さんと一緒につくる手法と、京都の工房で私たちだけでつくる手法、どちらも必要なんです。なぜなら、今ある伝統を未来につなぐという一つの使命と、今、革新を起こして未来の伝統をつくるというもう一つの使命、二つあると思っているからです。そのどちらが欠けても、結局未来につながっていかないので。

上野

職人さんたちも一緒に作業しながら、結果を目にすると、こんなことができてしまうんだという気づきがあったり。そこでまさしくさすがの領域というのを目の当たりにすることになりますね。

堀木

でも、職人さんたちは、私たちのすることについては、「そんなものは伝統ではない」って仰ってますから。それはそれでいいんです。ただ、若かったころは、そんなの伝統ではないと言われたときにすごく落ち込みました。私たちは伝統を未来へつなごうと思ってやっていますけれど、職人さんから批判を受けるわけですから。私はひょっとしたら伝統を崩すような動きをしているかもしれないと、そこで不安も出てくるわけです。でも、伝統って何?と原点に向かって考えると、1300年前には革新だったわけですよね。その革新が長年愛されて親しまれて使われてきて、今伝統と言われている。職人さんが仰るように、私がやっていることは伝統ではないんです。革新なんです。その革新を将来50年後、100年後、1000年後、伝統と言われるように愛されて親しまれて使われるようにしていけば結果的に伝統になるのだと。そういう考え方を持ってまたパッションを立ち上げる、という繰り返しですね。

上野

従来にないものを新たに切り拓かれるので、当然そこでの考え方とかアプローチには差があるのでしょうね。堀木さんの作品は海外でも注目され、活躍の場が世界に広がっていますね。

堀木

そうですね、徐々に徐々にと。ただ広告宣伝などは一切していなくて、国内でも営業はしていないんです。本当にひとづてにとか、作品を見てとか、テレビや雑誌を見てという形で、皆さんに知っていただいて問い合わせいただいて、何とか35周年になります。今の会社の前に、SHIMUSというブランドを起こしていますので、そこも合わせて35年です。8年前くらいから、京都の中心地にショールームを移転していますので、ぜひまた見にいらしていただきたいです。

上野

和紙の可能性や広がりを拝見できますね。楽しみに伺います。本日は有り難うございました。

2021年12月 アーティゾン美術館ミュージアムカフェ(東京)にて
 
photo by Keisuke Osumi